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牛飼はじめ

Author:牛飼はじめ
浦々の天神様に大震災からの復興と家畜の安寧を祈っています。

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幕末四名匠

2016.11.04 18:58|所縁の人々
石川雲蝶(1814-1883);西福寺 開山堂の彫刻
高橋鳳雲(1810-1858);釈迦三尊,五百羅漢など仏像700体
松本良山(1801-1872);成田山新勝寺釈迦堂の堂羽目の五百羅漢
野村源光;天満宮背像(46天満天神社
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佐土原基右衛門親善(1801-1840)

2016.02.24 20:11|所縁の人々
享和元年(1801年)出生。文政九年(1826年)父の死去後、二十六歳で黍野組の庄屋となった。文政、天保年間は天候不順による凶作が続き、村民は飢餓に苦しみ、人心不安の世情に加えて天保の改革による野津郷内の村の組替えがあり、これに反対した農民の年貢不納の動きがあった。藩命により庄屋は協議して村民を諭したが、解決できなかった。基右衛門は人となり剛直。村民の言も理無きに非ずと考えその旨を代官に進言した。代官は大いに怒り村民扇動の首謀と邪推される。基右衛門は真実の弁明に努めたが疑念を解くことが出来ずついに村民のためという一義に徹し、身の潔白を明かそうと自決した。時に天保十一年(1840年)四十歳であった。「思いきや心のたても果たさずて死するうらみぞいつかはれなむ」という辞世にその心情が偲ばれるが、死後十年目の嘉永三年、板屋原稲荷社を勧請。基右衛門の霊を祀る社として、大将軍神社と呼び崇敬を集めている(境内の案内より)

東(とう)胤頼(1155-1228)

2015.09.01 12:03|所縁の人々
千葉氏二代千葉介常胤(1118-1201)の六男。のちに下総国東庄(千葉県東庄町)を領して東(とう)を名乗る。

 胤頼(たねより)は文武両道に秀で、平安時代末期、二十代に上洛して上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕え、五位の位を受ける。上西門院は反平家の拠点だったとも言われ、三浦義澄とともに流人だった頼朝と交流を持つ。頼朝の挙兵に際しては、父・常胤らを説得して頼朝に味方させた。その功は極めて大きく頼朝の絶大な信頼を得ていたと言われる。

 胤頼は上西門院に仕えた経緯からか、京都との結びつきあるいは詩歌の造詣が深い。当然菅原道真あるいは北野天満宮の存在を知っていたことは疑いないだろう。

東胤頼年表
年齢記事
11550常胤の六男として生まれる。母は秩父重弘次女
118051525在京。以仁王(もちひとおう)の挙兵に加わる
1180625関東に下る
118062725伊豆
1180925下総国へ戻る
118429一ノ谷の戦いに加わる
11851030治承・寿永の乱終了。東庄を相続
1185102430長勝院(頼朝の父)の供養に参列。鎌倉
119010235頼朝と共に上洛
11948839相模の国日向山薬師参詣
119531040奈良東大寺再建供養に参列
120449出家
122772在京。嘉禄の法難
1228111073没。10/12の説もある


関連する天満宮
984天満天神(大友・東庄町)

多治比 文子

2014.10.21 06:38|所縁の人々
多治比(たじひ)文子(あやこ、奇子とも書く)
生没不明。
平安時代中期、延喜九年頃(909)藤原時平の弟忠平の治世から11世紀前期(1020)、の巫女(みこ)あるいは道真の乳母とされる。
天慶(てんぎょう)5年(942)7月13日北野の右近の馬場に社殿をかまえて菅原道真の霊をまつるよう神託をうける。はじめの五年間、右京七条二坊13町の自宅近くに小祠を建て道真を祀ったが,天暦(てんりゃく)元年(947)6月9日、北野朝日寺の僧最珍らの尽力で神託の地に神殿(現北野天満宮)を造立した。

※藤原忠平は、道真と親交があったともされる。忠平の治世の時代は政治的にも安定していたようで、天満宮造営には、時代の後押しもあった。「たじひ」と「ただひら」、なんとなく似ている。

渡會春彦

2012.06.12 09:15|所縁の人々
伊勢神宮外宮の神官で禰宜(ネギ)。
若い頃から頭髪がまっ白であったことから「白太夫」と呼ばれていたようである。
そういえば、89錦天満宮の社殿の左奥だったろうか、白太夫神社が、摂社として祀られているようである。

摂社=本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称、本社と末社の間に位する。

道真との関連はつぎのようである。綱敷天神社のサイトより
「菅公の父、菅原是善公は長男、次男共に幼くして亡くなったため世嗣がいませんでした。そこで侍臣の島田忠臣(当代の詩匠と呼ばれ、道眞公にとってはの妻方の義理の父親にもあたる。)に命じて、伊勢神宮外宮神官の渡會春彦を通じて伊勢神宮外宮に祈願し、その御神徳によってお生まれになったのが道眞公だったのです。その縁でその後道眞公のもり役として仕える事になりました。」




平将門

2011.08.10 05:27|所縁の人々
生年は903年とするが、884年頃との意見もある。

15.6歳で上京(平安京)し、27.8歳で東下する。

従って、平将門は菅原道真と会っているか、少なくても名前は知っていた可能性が大きい。

道真は西に下ったので、二人は同時代に似たような境遇を経験している。

940年3月25日死。

菅原道真

2011.08.09 08:36|所縁の人々
845年8月1日 生

901年 太宰府へ流される。

903年3月26日 薨去

919年 安楽寺天満宮(後の太宰府天満宮)

鈴木春信(1725-70)「天神図」(1751-64)
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「我たのむ人をむなしくなすならば 天が下にて名をやながさん」
寺子屋に天神図が飾られていたいたようで、浮世絵師の題材になっていた。
鈴木春信の天神図はこれしか残されていない。

文人の道真公は帯刀していないと思っていたが、この絵は刀を帯びている。

鳥居清満(1735-85)「」菅丞相」(1764-72)
mitizane2IMG.jpg
「こちふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」

このような浮世絵を水絵という。明和期の初めに一般的になった

【引用文献】381 メアリー・エインズワース浮世絵コレクション 千葉市美術館/編 千葉市美術館 2019