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248村上神社(津久見市)

2013.01.06 09:50|大分県津久見市(北部)
【祭神】加具土命(六柱)・大山祇命・菅原道真公(五柱)・本多別命(二柱)・宇気母智命・火産霊命・大物主命・保食命・磐長比売命
【由緒】通称「愛宕様」と呼ばれ、厚い崇拝をうけている。当社は、江戸時代に記された「臼杵小鑑」によると、昔、夕顔という美人がこの地に住んでいたので、その古蹟を慕って地蔵尊を建立したことにはじまるといわれていますが、いつ頃のことかはっきりとはわかっていません。またご神体は佛工「定朝」(1020年頃の人で日本彫刻史上屈指の名工。国宝の宇治平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀仏如来の作者)の作とも伝えられています。
境内に?宝篋(きょう)印塔が立っており、文安六年(1449)卯月八日と刻まれています。これは永享七年(1435)六月の姫岳合戦で討死した伊予国の武将河野通久の供養のため、その子孫が建立したもので別名「伊予塔」とも呼ばれており、現存する津久見市最古の石造文化財です。
また別の説によると、鎌倉時代に豊前・豊後の守護職として下向してきた大友家初代能直が守護神として奉じてきたのを宗麟が臼杵城の東端に祀り、さらに稲葉氏が神夢により、慶長十五年(1610)の現在の地に神殿と拝殿を造営したといいます。特に、武神ゆえに歴代藩主の崇敬は厚く、心身鍛錬のためにしばしば参詣していたといいます。今の拝殿は安政三年(1856)銘の棟札が残っていることから、江戸時代の終わり頃に造営されたことがわかります。
村上神社と呼ばれるようになったのは、明治十一年(1878)のことで、この時に葛畑、河内、兎?地区内にあった十六社を合祀しました。
【行程】国道217号の臼津トンネル手前の分岐に、本社の由緒を書いた案内板がある。国道を左折してやや狭い道を等高線沿いにやや上りながら進むと、消防団と書かれた建物の右側に鳥居が見える。
248_4939.jpg
それにしてもここの石段は、その傾斜と段数では、群を抜いている。転げ落ちそうなので、右手の舗装された小道を上る。ここからは集落の南西側が望める。
248_4950.jpg
数分で境内に着くが、上から見下ろすと、さらに足がすくむ。振り替えると拝殿がある。神額は持王宮と読むのだろうか。拝殿の意?。
248_4942.jpg
境内の後ろから社殿方向。
248_4944.jpg
しかしながら、この狭い地区に菅公が五柱もあったとは。


より大きな地図で 天満宮散策 を表示

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